1日限定公開『あの夏のアダム』
2006年のニューヨークが舞台の映画です。シスヘテロの高校生がトランス男性と間違われたことから、シスヘテロであることをクローゼットに入れながらクィアコミュニティで夏を過ごすコメディ映画。ノーマルスクリーンさんが1日限定で京都みなみ会館で公開してくれました。リース・アーンスト監督がオンライン参加でのティーチインもありました。
この物語は既存のシスヘテロノーマティブな社会を逆照射しています。
いろいろな物語に自分を重ねうると思うけど、当時のクィア・コミュニティをアダムと一緒に学んでいけるような感覚でした。ミシガン女性音楽祭へのカウンターがあったり、当時のクラブシーンであったり。
『あの夏のアダム』主人公と一緒にシェアハウスに住んでいる友人たちとの関係性もとっても魅力的でした。ルームメイトとの関係を見ながら友情をベースにした関係性の大切さを感じました。
彼らは、いまだに形を持たぬ関係を、AからZまで発明しなければなりません。そしてその関係とは友情なのです。言いかえるならば、相手を喜ばせることができる、一切の事柄の総計なのです。ーミシェル・フーコー著、増田一夫訳『同性愛と生存の美学』(哲学書房)11頁
ダムタイプの「S/N」の中での引用されているフーコーの言葉です。古橋悌二さんがニューヨークにいたのが1986年頃でこの映画の舞台の20年前くらいでしょうか。リース・アーンスト監督が2006年を感じるクラブやロケーションを探すのが難しかったと言っていた。リース・アーンストさんは2006年にNYにいて、映画の舞台にしたHOLEというクラブにも行っていたらしい。古橋悌二さんがいたころのNYとはあまりにもたくさんのことが変わっているのだろう。社会もたくさん変わっているだろう。でも今を生きるわたしに古橋悌二さんのメッセージはとても響いてる。
ちなみに『あの夏のアダム』でわたしが1番好きなシーンはトランスキャンプで裸で川で遊んでいるシーンです。とても開放的/解放的だった。記憶の中でとってもキラキラしてる。
ジュリア・セラーノ❝Cocky❞
川で遊んでいるトランスキャンプのシーンで、MJロドリゲスさんがジュリア・セラーノさんの詩を朗読するシーンもとても力強くてエンパワーメントでした。思わず拍手しそうになり、映画館なことを思い出してとどまりました。
朗読していたジュリア・セラーノさんの詩は「Cocky」というみたいです。動画と文章が載っているサイトがありましたので参考に載せときます。
whatsortsofpeople.wordpress.com
ジュリア・セラーノさんといえば、『ウィッピング・ガール』が翻訳されて出ていますので興味のある方はぜひ。と言いながらわたしは序盤の言葉の意味の説明のところで疲れてしまって、後半がそんなに入っていないので読み直さなければ…。ジュリア・セラーノさんの用語集がほしい…(笑)
「当事者」のコミュニティで生き延びること
『あの夏のアダム』では主人公がシスヘテロ男性であることを隠しています。シスヘテロノーマティブな社会のあり様をクィアする表現の1つで、とてもおもしろい表現方法でした。
そういう趣旨だから次に述べるような物語が入る余地は少ないと思うし、それで良いと思うのですが…。
わたしはアディクションのコミュニティにつながりを感じています。わたしには非「当事者」という感覚はありますが、「当事者」のコミュニティにとても居心地の良さを感じています。それは既存の社会を覆いつくしている規範を弱めているせいかもしれません。自由な生を否定せずほっといてくれるからかもしれません。
わたしはアディクションのコミュニティのおかげで生きていられる/生きのびてこられたという感覚を強く持っています。「マイノリティ」のコミュニティの中でこそ深い息ができる、落ち着ける、眠りにつける、生きられる。クィアな人と一緒にいるときもけっこう自由でいられます。そういう経験もあることは改めて記しておきたいなって思いました。
京都みなみ会館は9月末で閉館することが決まっています。これがわたしにとって最後の京都みなみ会館かもしれません。ありがとうございました。