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生活と考察の記録

生活保護のホームページがない自治体(沼田市、富岡市、安中市)

生活保護のホームページがない自治

群馬県沼田市富岡市安中市の3市が生活保護についてホームページで説明していないことがわかった。3市ともに早急にホームページを作成予定という。群馬県桐生市で様々な問題が明らかになっている。群馬県の各福祉事務所の生活保護のホームページと生活保護のしおりを調査していたところ、衝撃的な事実がわかった。

沼田市は「昨今では老若男女問わずスマートフォンにてインターネットを活用できる社会となりましたので、対応するべく、ホームページを作成」する予定という。富岡市安中市はホームページを作成していない理由は特段ないという回答だった。

社会・援護局関係主管課長会議の保護課分では次のような記載がある。確かにホームページを作成する指示はないが、そもそもホームページが作成されていることを前提に、その見直しをするよう指示されている。

生活保護制度を案内する各地方自治体のホームページやしおりについても、内容に不適切な表現がないか、制度改正などが反映されていない点がないかなどを点検いただくとともに、こうしたことにより相談者に申請をためらわせることのないよう引き続きご対応をお願いする。

また、富岡市のホームページには「お富ちゃんに質問する」という欄があり、そこに「生活保護を受ける条件について」と入力すると回答が返ってくる。その答えでは「扶養調査(身内の方からの援助の有無等を確認する調査)」とあり、扶養調査が申請の条件であるかのような記載がある。しかも扶養照会をしない対象の例示がない。ホームページで案内していない内容をチャットボットで回答するリスクがある。参照元は何なのだろうか。生活保護担当課が明確に指示をして責任を追える体制なのだろうか。ちなみに、安中市にも同様のチャットボット機能がある。しかし、私がいじった限りでは、生活保護の質問をしても国民健康保険のことかと聞かれて、生活保護のことはわからなかった(それが良いことなのか悪いことなのかという問題はありますが…)。

 

お富ちゃんのスクリーンショット

桐生市生活保護ホームページについて

厚生労働省は2020年12月22日に「生活保護は国民の権利です。生活保護を必要とする可能性はどなたにもあるものですので、ためらわずにご相談ください。」というメッセージがホームページに記載した。

www.asahi.com

令和3年9月の決算特別委員会にて、厚労省の広報を受けて、桐生市生活保護の権利性を広報することを議会で求められていた。しかし、桐生市は積極的な広報を拒否をしていた。「相談があった場合丁寧に対応させていただいている状況であります」と回答していた。

令和 3年  決算特別委員会 09月02日-03号 P.125 ◆質問 委員(渡辺恒)

◆委員(渡辺恒) 
  それと、生活保護については、1人のところでカウントするというところであります。そうすると、なかなかこのコロナの関係の中で今生保に関する仕組みやその生保を受けていいのだということの周知というのもやはり今必要になってくるのではないかなというふうに思うのです。厚生労働省は、このコロナの関係の中にあって、生活保護は国民の権利である。請求することについては、何ら問題はないということを明確に打ち出してホームページや公式SNSのアカウントなどにおいても公表しているような状況になります。桐生市も、そういったことに倣ってホームページやSNS等で国民の権利であるというところをうたい、生活に本当に困っているのであればぜひ相談してくれというようなことを取り組んだらいかがというふうに思いますが、どうでしょうか。

P.126 ◎答弁 福祉課長(渡辺浩司

◎福祉課長(渡辺浩司) 
  今生活保護についてもっとPRをというところなのですけれども、やはりこちらは国のほうでいろいろと周知のほうしておるところでございます。また、生活困窮者の自立支援のところでも、生活困窮のところで救えない部分というのですか、その部分についてはしっかりと生活保護の係のほうと連携しておりますので、御理解のほういただければと思います。

P.126 ◎答弁 保健福祉部長(助川直樹)

◎保健福祉部長(助川直樹) 
  生活保護の関係でございますけれども、先ほど課長のほうでお話はさせていただきましたけれども、告知云々ということで、単純に告知するというだけではなくて、当然権利ということは我々も承知しておりますし、そういった御相談については、相談があった場合丁寧に対応させていただいている状況であります。
  なお、ただ生活保護の制度自体を全面的にホームページで表して御理解いただくというのは非常に難しいことかと思っておりますので、もしそういう御相談がありましたら、私どものほうにいつでもお話をいただければ、その相談を受けて対応させていただければと思っております。そのようなことで今までもやってきておりますので、御理解いただきたいと思います。

桐生市は面接相談時に警察OBが同席して対応していたことがわかっている。また、生活保護の申請に行くと5人がかりで怒鳴られたという報道もある。生活保護が権利であるという積極的な広報を拒否し、面接相談時には警察OBが対応し、複数人で取り囲んでいた。なるほど、桐生市にとっての丁寧な対応の内実が明らかになってきている。

mainichi.jp

www.jcp.or.jp

なお、桐生市は令和6年3月21日付でホームページの更新を行った。ちなみにこの更新内容を含めた群馬県下の各福祉事務所のホームページと生活保護のしおりの評価は別の記事で触れたいと思います。

www.tokyo-np.co.jp

問われるべき監査制度

沼田市富岡市安中市の3市は生活保護の情報を発信する最低限の行為すら怠っていた。もちろん早急にホームページを作成すべきだが、作成すればこれまで作成していなかった問題が無くなるわけではない。

また、これらの3市のみならず、群馬県厚労省のように監査する側にも責任がある。一市民からの問い合わせに対して3市ともに早急に生活保護のホームページを作成すると回答があった。私以外にも群馬県の各福祉事務所に問い合わせをしているかもしれないが。もし県や厚労省が監査で指摘していればもっと早くに改善していただろう。

群馬県厚労省はホームページがないことを把握していなかったのだろうか。把握したが指摘をしてこなかったのだろうか。生活保護のホームページがない期間がどれだけあったのか。何年か、何十年なのか。

これは生活保護の監査制度の欠陥でもある。監査制度は濫給防止を偏重して漏給をまなざそうとしない。つまり、生活保護を必要な人に届けようとしているかどうかは監査ではまなざされない。また、各扶助や各加算が必要な人に計上できているかもまなざされない。つまり、ホームページがない状態を監査制度を含む現行のシステムは許容してしまっているのだ。

群馬県桐生市の事件を受けて、遺憾で再発防止に努めたいと述べて、印鑑などの問題は見抜けなかったという。確かに福祉事務をがさ入れのようにチェックするのは現実的でないかもしれない。しかし、生活保護利用者が10年間で半減してきたのは監査資料で明らかだ。群馬県はそれを肯定的に捉えることはあっても、批判をしてこなかったのではないか。また、桐生市が1年間の通院交通費はたったの8件で合計2,400円しかなかったという。このように生活保護の扶助が必要な人に届けられていない疑いが十分にあるにもかかわらず監査制度はこの面では機能していない。

mainichi.jp

また、2021年7月に生活保護情報グループが厚労省に情報公開請求をして、エアコンの支給実績の自治体間格差を見える化したことがあった。厚労省は「最終的には自治体の判断であり、国として今回のデータを評価することは難しい」と回答していた。そもそも生活保護情報グループが開示請求を行ったのは厚労省だ。厚労省が持っているデータだ。そのデータを監査で活かして、必要な人に必要な保護を届けようとはしていない。その上でまるで他人事のようなコメントをしている。

www.asahi.com

 

篭山京(1978)『公的扶助論』光生館の182頁から以下の文章を引用する。1978年の刊行物の内容であるにも関わらず、現代においても通用すること自体が遺憾なことである。

 法第1条と法第3条に基づいて監査することは、事務的になかなかむずかしく、法第2条と第4条の要件について監査する方がやさしいので、その方に傾いたということもあった。むしろ指揮監督は、法第1条と法第3条に基づいて行うべきで、厚生大臣はその指揮監督そのものが、法第1条、法第3条にそっていたかどうかを、国民によって監査せられなくてはならないのである。

 この監査の担当者は法第23条第2項で都道府県知事または市町村長に対して資料の提出・説明を求め、指示をすることができるので、福祉事務所に対しては強い権限になる。このために、福祉事務所の業務は、監査で指摘を受けないような、事なかれ主義に流れた。(中略)

 けれども一体、指揮指導に当ったり、監査に当る官吏や吏員が、生活保護制度をどれだけ知悉し、生活困窮の本質と実態をどれだけ知っているかについての審査、言いかえれば監査官の資格審査は規定されていない。したがって、その指揮監督や監査が官僚独善に陥って、角をためて牛を殺すことになっている危険性を全く否定することができない。官吏や吏員の質の問題は、あらゆる面で問題とされ、これに応えるために研修が行われている。しかし監査官の研修・試験は行われていないようである。したがって、厚生大臣をはじめとする実施機関に対する国民の批判が、きわめて重要なのである。

監査制度を市民(国民に限らず)でチェックして批判していくことが生活保護行政の民主化のためには重要なのである。そして、市民のための生活保護制度としていくためには、監査制度を含めて根本的な改革が必要だ。

生活保護基準の富山地裁の勝訴判決&昨年の富山旅について

富山地裁で原告側が勝訴

2024年1月24日に富山地裁で判決が出ました。2013年の生活保護基準引下げ訴訟に関してです。基準引下げは違法である旨が判示された。

これで同種の訴訟では、地裁では14勝11敗、高裁では1勝1敗となった。厚生労働大臣に広範な裁量が認められる生活保護基準に関する訴訟で異例の事態となっています。

昨年富山に行った時にお会いした弁護士の方や活動をされている方をオンラインではありますがお話を聞けて嬉しかったです(後半に謎の旅の振り返りをします)。

同日行われた判決の報告集会では、原告、支援者、弁護士、富山で大学生等への生活保護適用拡充の活動されている方、他都市の原告などからお話がありました。

newsdig.tbs.co.jp

withnews.jp

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一体どれだけたくさんの命を見送れば、世の中は変わってくれるんだろう

この提訴から9年が経過しています。原告の方で亡くなっている方もいらっしゃいます。判決の報告集会では原告の方どうしで長生きしようと声をかける場面や原告が死亡した際に訴訟を引き継げるように訴訟継承に関するお話もありました。

富山地裁の訴訟でしたので、林夏生さんの訃報に接したことを意識していました。林夏生さんの杉田水脈さんへの抗議集会で次のように言ったとされています。

一体どれだけたくさんの命を見送れば、世の中は変わってくれるんだろう。

私は大学の教壇でずっと学生たちに「政治を諦めるな」って言ってるんです。「諦めたくなるような政治」はどうか終わりにして下さい。

サラ・アーメッドさんと高島鈴さんからも引用させていただきます。サラ・アーメッドさんの「戦いとしてのセルフケア」はとっても示唆に富むエンパワーメントされる文章です。

私たちの中には、もともと生存することが想定されていない人々もいるのだということを、オードリー・ロードは指摘する。特定の身体を持つこと、特定の集団の一員であること、何者であるかが、そのまま死の宣告になることがある。自分らしく、どこかで、誰かと共に生きることが許されていないとき、生存すること自体がラディカルなアクションとなる――最後まで存在しないことを拒否すること。ーサラ・アーメッド/浅沼優子訳「戦いとしてのセルフケア」『現代思想』51(6)

元気がなくても、身体を動かすことができなくても、この社会に抗うことはできる。生存すること自体が、すでに抵抗だと――「弱いまま生きていく」ということをまず肯定したい。高島鈴に聞くこれからの社会のこと | CINRA

「生存は抵抗」だ。高島鈴さんはよくおっしゃっています。南米のフェミニズム運動のNi Una Menos は「だれひとり欠けさせない」という意味だそうです。

また一方で、亡くなった方との向き合い方について最近読んだ文章を紹介します。

小松原織香さんの『当事者は嘘をつく』に対して、小西真理子さんが『歪な愛の倫理』の中で次のように触れています。

私は、死んでいく者たちの願望や死そのものをどうしても否定したくない。…死を肯定も否定もせずに、その人の人生を判断したり評価したりするのとは別の仕方で、亡くなった人の存在そのものや、確かに生きぬいた姿、そして、もしその人が身近な他者であったとするならば、その相手が自分に与えてくれたり残してくれたりしたものを(よいものも悪いものもまとめて)受け止めて、肯定することなのではないだろうか。ー小西真理子『歪な愛の倫理:<第三者>は暴力関係にどう応じるべきか』(筑摩書房)211-212頁

それに対して小松原織香さんが応答した文章も紹介させていただきます。(ちなみにこの書評は牧瀬茜さんという以前このブログでも紹介したストリッパーの方の記事を読みたくて出会いました)。

 「あなたとは一緒に行けない」
 私はサバイバーになってしまったから、死や暴力に向かう人たちを見送ることになる。命ある者は「生きる」か「死ぬか」のどちらかの状態しかなく、両方は選べない。小西は生き延びるという言葉に対し、「死者と生者の世界のあいだにある僅かなつながりからも死者を切り離してしまうような響き」を指摘する。その文学的な示唆は理解できても、「彼女がここにいない」ことは、私にはどうしようもない断絶としか感じられない。ー一緒に死ねなかったから、サバイバーになった|筑摩選書|小松原 織香|webちくま (webchikuma.jp)

 

富山旅の振り返る

2023年10月に1泊2日に仕事で富山へ行きました。海鮮料理やチャーシューの写真などが出てきますのでご注意いただきますようお願いいたします。

 

富山駅は主要ターミナル駅にも関わらず、駅を出た瞬間にベンチで寝ている方がいらっしゃって、そのこと自体がとっても素敵な空間に感じました。排除型ベンチばかり見ていますので。ちなみに富山で最初に見た排除型ベンチは富山市役所でした…。富山県生活保護率が全国最低なのですが、そういうとこやぞって心の中でつっこみました(いや、他の仲間に写真見せてつっこんでましたけど)。

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せっかく富山へ行くならと、今回の訴訟の代理人もされている弁護士の方にお会いしたい思い、何の面識もないにも関わらず一緒に食事へ行きたいとメッセージを送り声をかけたところご快諾いただきました。この時の私のメッセージで私が参加している活動を紹介したのですが、こうやって自分を権威づけてお誘いしてて我ながら最低だぁって感じで…。しかもこちらからお誘いしたのに、お店の予約とか、当日SNS繋がりの富山で生活保護関連の活動をされている方も1名追加になったのですがその予約の変更とか、何から何までお世話になってありがとうございました。

海鮮料理おいしかったですし、富山の生活保護を巡る状況、お互いの活動、生活保護の法的な解釈などについて色々とおしゃべりさせていただきました。

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ひとまず今回の訴訟で良い結果が出て良かったです。おめでとうございます。もちろん弁護士の方だけでなく、より多くの方におめでとうございます。これからも戦いは続きますがひとまず今はおめでとうの気持ちです。

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ジブリに関する複雑な気持ちがありますが、それはまたいつの日か…。)

牧瀬茜さん「うみのうた」を見てきました

本の写真。牧瀬茜『うみにかえりたい』(七月堂)。表紙は黒の背景に魚の絵が描かれています。帯文には「小さな四角い籠の中 誰かが私を閉じ込めた 人魚は路上でつぶやいた」と書かれています。

牧瀬茜さん「うみのうた」

2023年9月17日に、京都に牧瀬茜さんの「うみのうた」を見てきました。グループ展の作家の1人として牧瀬茜さんが絵と詩が出展されていました。

牧瀬茜さんの絵と詩の展示の写真。

 

「セックスワークにも給付金を」訴訟の牧瀬茜さんによる陳述書を読んだときに、わたしが身体表現に惹かれている大切なことを牧瀬さんの文章から感じました。とっても牧瀬茜さんの身体表現を見たいと思ってました。全文好きなのでぜひ通して読んで欲しいですが、特に好きな部分を引用させていただきます。

衣服を脱いでも、自意識に覆われているうちは解放感は得られません。自分の内にあるものをおしころしているうちは開放感はありません。表現する仲間の中には、脱ぐ脱がないに関わらず、裸以上に裸だなと感じるミュージシャンなどもいます。裸という物質的なことに本質的な意味はない気がしつつも、しかし自分は、縁があってストリップに出会い、やはり裸になることや裸であることを通して裸を追及したい思いがあります。

陳述書以外にも「セックスワークにも給付金を」訴訟に関してはCALL4のサイトで確認できます。クラウドファンディングも行われています。

特定の職業を「本質的に不健全」とまなざすこと、それにより経済給付に差を設けることの是非は社会保障社会福祉の関係者とも一緒に考えていきたいと思います。

牧瀬茜さんは「紅子の色街探訪記」のYouTubeでのインタビューで「『浄化』という言葉がとても嫌いなんですよね。それに対する反抗心みたいものすごくあります。そういう、人の中にある、またこの社会が生みだしたものであるのに、それをねないものにして、見えなくしてしまう、それは悪ですね。それに対する反抗心は大いにあります」といった趣旨のことも語っています。

www.youtube.com

 

牧瀬茜さんの身体表現はとても感動しました。解放感と開放感。わたしが身体表現の好きなところをたくさん感じました。また、政治的であることもとても好きです。海の偉大さ、深さ、人間の愚かさ、権力に抵抗すること、まぶいをわけあうこと。本当に最高の時間でした。とても丁寧で、表現と社会と人と真摯に向き合っているのを感じれて、あの時間と空間でいられたことがとっても幸せでした。

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牧瀬茜『うみにかえりたい』(七月堂)を購入。「せっかくなのでサインを貰いますか?」といった声掛けをしていただいて、とても緊張しましたが少しだけお話できて嬉しかったです(パフォーマーの方と話すの苦手なほうですが、最近ストリップでポラorデジカメ撮影いけるようになってきました)。

わたしがストリップを見始めてから関西に来られる機会がなくて、今回京都に見に行きましたが、初めて見た牧瀬さんの身体表現が「うみのうた」でよかったです。

ラ・マティエール La matière vol.3

ラ・マティエールというChuling Changさんの個展と7人の作家さんのグループ展でした。19日までやっているそうです。会場のgallery green &gardenも運営も牧瀬茜さんのパフォーマンスの自由さを保障してくれる懐の深さを含めて、物理的にも非物質的な要素もとても空間でした。

ラ・マティエールのチラシ。

会場の外観写真。1階は喫茶店で、2階が会場でした。


Premarché organics(プレマルシェ オーガニクス)

会場近くに商店街があって、ヴィーガン対応のアイスを食べられるお店がありました(ちなみにわたしはフレキシタリアンですが)。北海道産濃厚有機トマトソルベを食べました。

 

9月中旬ですが、残暑が厳しいのでアイスがとってもおいしい。この夏の暑さのダメージが心身の奥深くに残ってる感覚です。ちょっとしんどさが抜けきらない日々…。体の奥深くにあるこの夏のダメージをちょっとずつ解きほぐしたい。みなさまもお大事に。

Premarché organics(プレマルシェ オーガニクス)の外観写真。

北海道産濃厚有機トマトソルベの写真。

 

 

『あの夏のアダム』を見てきました

ADAMの小さな置き看板の写真。京都みなみ会館の入り口付近に置かれています。。

1日限定公開『あの夏のアダム』

2006年のニューヨークが舞台の映画です。シスヘテロの高校生がトランス男性と間違われたことから、シスヘテロであることをクローゼットに入れながらクィアコミュニティで夏を過ごすコメディ映画。ノーマルスクリーンさんが1日限定で京都みなみ会館で公開してくれました。リース・アーンスト監督がオンライン参加でのティーチインもありました。

 

この物語は既存のシスヘテロノーマティブな社会を逆照射しています。

 

いろいろな物語に自分を重ねうると思うけど、当時のクィア・コミュニティをアダムと一緒に学んでいけるような感覚でした。ミシガン女性音楽祭へのカウンターがあったり、当時のクラブシーンであったり。

 

『あの夏のアダム』主人公と一緒にシェアハウスに住んでいる友人たちとの関係性もとっても魅力的でした。ルームメイトとの関係を見ながら友情をベースにした関係性の大切さを感じました。

彼らは、いまだに形を持たぬ関係を、AからZまで発明しなければなりません。そしてその関係とは友情なのです。言いかえるならば、相手を喜ばせることができる、一切の事柄の総計なのです。ーミシェル・フーコー著、増田一夫訳『同性愛と生存の美学』(哲学書房)11頁

ダムタイプの「S/N」の中での引用されているフーコーの言葉です。古橋悌二さんがニューヨークにいたのが1986年頃でこの映画の舞台の20年前くらいでしょうか。リース・アーンスト監督が2006年を感じるクラブやロケーションを探すのが難しかったと言っていた。リース・アーンストさんは2006年にNYにいて、映画の舞台にしたHOLEというクラブにも行っていたらしい。古橋悌二さんがいたころのNYとはあまりにもたくさんのことが変わっているのだろう。社会もたくさん変わっているだろう。でも今を生きるわたしに古橋悌二さんのメッセージはとても響いてる。

 

ちなみに『あの夏のアダム』でわたしが1番好きなシーンはトランスキャンプで裸で川で遊んでいるシーンです。とても開放的/解放的だった。記憶の中でとってもキラキラしてる。

 

ジュリア・セラーノ❝Cocky❞

川で遊んでいるトランスキャンプのシーンで、MJロドリゲスさんがジュリア・セラーノさんの詩を朗読するシーンもとても力強くてエンパワーメントでした。思わず拍手しそうになり、映画館なことを思い出してとどまりました。

 

朗読していたジュリア・セラーノさんの詩は「Cocky」というみたいです。動画と文章が載っているサイトがありましたので参考に載せときます。

whatsortsofpeople.wordpress.com

ジュリア・セラーノさんといえば、『ウィッピング・ガール』が翻訳されて出ていますので興味のある方はぜひ。と言いながらわたしは序盤の言葉の意味の説明のところで疲れてしまって、後半がそんなに入っていないので読み直さなければ…。ジュリア・セラーノさんの用語集がほしい…(笑)

本とステッカーの写真  本はジュリア・セラーノ著、矢部文訳『ウィッピング・ガール』(サウザンブックス社)。  オレンジ色を貴重に黄色のアクセントカラーの表紙で以下のところが書かれています。  トランスの女性はなぜ叩かれるのか  これがトランスジェンダー女性が見ている風景だ。そしてここからフェミニズムの新たな一歩が始まる。ー三木那由他(哲学者)  a transsexual woman on sexism and the scapegoating of femininity  ステッカーはTRANS ALLY, WHIPPING GIRL,ウィッピングガールなどで6枚。  全てのステッカーが水色、白、ピンクのトランスカラーが使われています。

 

「当事者」のコミュニティで生き延びること

『あの夏のアダム』では主人公がシスヘテロ男性であることを隠しています。シスヘテロノーマティブな社会のあり様をクィアする表現の1つで、とてもおもしろい表現方法でした。

 

そういう趣旨だから次に述べるような物語が入る余地は少ないと思うし、それで良いと思うのですが…。

 

わたしはアディクションのコミュニティにつながりを感じています。わたしには非「当事者」という感覚はありますが、「当事者」のコミュニティにとても居心地の良さを感じています。それは既存の社会を覆いつくしている規範を弱めているせいかもしれません。自由な生を否定せずほっといてくれるからかもしれません。

 

わたしはアディクションのコミュニティのおかげで生きていられる/生きのびてこられたという感覚を強く持っています。「マイノリティ」のコミュニティの中でこそ深い息ができる、落ち着ける、眠りにつける、生きられる。クィアな人と一緒にいるときもけっこう自由でいられます。そういう経験もあることは改めて記しておきたいなって思いました。

 

京都みなみ会館は9月末で閉館することが決まっています。これがわたしにとって最後の京都みなみ会館かもしれません。ありがとうございました。

京都みなみ会館の外観写真。窓から京都みなみ会館の垂れ幕と公開中の映画のチラシが見えています。

 

生活保護ケースワーカーと死者についての考察

死体遺棄罪について

死体遺棄罪とはいったいどのような犯罪なのでしょうか。実はわたしはあまり明確に理解できていません。ある死体遺棄罪が問われた刑事裁判の傍聴をわたしはしてきました。また技能実習生の刑事責任が問われた刑事裁判のニュースに触れるたびにこの問いは強まります。

 

死体遺棄罪の保護法益は死者への一般人の敬虔感情と言われています。一般人の感情が法的保護に値するとはどういうことなのでしょう。そして、技能実習制度はそもそも生者への敬虔感情を欠いている制度であるという思いがとても強くわたしにあるのです。このような制度の中で選択肢を奪われ、誰にも相談をできず、権力に抑圧された個人が刑事責任という究極の個人責任を問われてしまっています。果たして責任の所在をどこに置いて、どのように応答していくべきなのでしょうか。

 

江戸川区の遺体放置事件

江戸川区にて、福祉事務所が生活保護利用者のご遺体を数か月のあいだ放置した事件がありました。この件で担当ケースワーカーは停職の懲戒処分を受けているようです。

www.city.edogawa.tokyo.jp

厚生労働大臣の加藤氏は「処理がしっかり図られるよう引き続き助言・指導を行っていきたいと考えております」と言っています。また、生活保護問題対策全国会議も「生活保護制度の根本的運用改善の大きな力になりますよう、切に願って要望させていただいた次第です」と言っています。制度の在り方を問うているのではなく、運用に焦点を当てている点で両者は共謀しているとわたしは感じています。

www.mhlw.go.jp

seikatuhogotaisaku.blog.fc2.com

 

全国会議は「法1条、2条、そして18条に違反した違法な処理というべき」と主張しています。しかし、第18条は「できる」規定となっています。また、小山進次郎氏の『生活保護法の解釈と運用』によると、18条は葬祭扶助の範囲と対象を定めた条文です。もちろん扶養義務者からの葬祭扶助を含めて生活保護申請を拒否したとなれば明確に違法でしょうが、そうでない場合に福祉事務所に具体的な義務づけまでを定めた条文と解するのは無理があるのではないでしょうか。また、1条と2条に反するという主張は全ての生活困窮者を生活保護は捕捉すべきという理念的としてはわかりますが、法的責任を追及できるほどに具体的な義務ではないとわたしは考えています。

(葬祭扶助)
第十八条 葬祭扶助は、困窮のため最低限度の生活を維持することのできない者に対して、左に掲げる事項の範囲内において行われる。
 検案
 死体の運搬
 火葬又は埋葬
 納骨その他葬祭のために必要なもの
 左に掲げる場合において、その葬祭を行う者があるときは、その者に対して、前項各号の葬祭扶助を行うことができる。
 被保護者が死亡した場合において、その者の葬祭を行う扶養義務者がないとき。
 死者に対しその葬祭を行う扶養義務者がない場合において、その遺留した金品で、葬祭を行うに必要な費用を満たすことのできないとき。

 

全国会議は「死後の葬祭については、まず、葬祭を行うべき扶養義務者がいるかどうかの調査とその結果に基づき葬祭の打診を行い、扶養義務者がいないときは、葬祭を行う者に葬祭扶助を行なうことになっています(法18条1項、2項)」とも主張しています。わたしには法第18条を何度読んでもこのような行動を取るべきと導き出せないように思います。さらに、もし仮に扶養義務者への葬祭の打診を行うことが法的義務であるとすれば、扶養照会を強化し、家族規範を強化することに繋がるでしょう。全国公的扶助研究会がケースワーカーを中心とする福祉事務所にアンケートを取ったところ、扶養照会を現行通り維持した方が良いと回答をした人の89%が「被保護者に何かあった際の連絡先把握」としています。そちらへの手当は何もせずにこのような主張を展開することは扶養照会の強化を後押しすることになるのではないでしょうか。

扶養照会アンケート調査結果(速報版)について | 豊かな福祉実践・研究活動をあなたと!全国公的扶助研究会

 

思うに、生活保護法の本旨は生者の健康で文化的な最低限度の生活を保障することです。それゆえに。生活保護法から死者との向き合い方を導出するのは困難だとわたしは考えています。

 

死後の法的世界はどうなっているのか

戸籍法では死亡届の届出義務者が定められています。また、死亡届の届出義務者から死亡届が出ないケースが増えているため届出義務者だけでなく、届出資格者が定められています。また、届出を怠った者があるときには催告をすることが可能です。そして、正当な理由なく死亡届出を出さない場合には過料に処される可能性があります。この催告が行われることは稀だと思いますが、催告は少なくともケースワーカーの所管事務でないことは明確だろうと思います。

戸籍法
第八十七条 次の者は、その順序に従つて、死亡の届出をしなければならない。ただし、順序にかかわらず届出をすることができる。
第一 同居の親族
第二 その他の同居者
第三 家主、地主又は家屋若しくは土地の管理人
 死亡の届出は、同居の親族以外の親族、後見人、保佐人、補助人、任意後見人及び任意後見受任者も、これをすることができる。
第四十四条 市町村長は、届出を怠つた者があることを知つたときは、相当の期間を定めて、届出義務者に対し、その期間内に届出をすべき旨を催告しなければならない。
 届出義務者が前項の期間内に届出をしなかつたときは、市町村長は、更に相当の期間を定めて、催告をすることができる。
 前二項の催告をすることができないとき、又は催告をしても届出がないときは、市町村長は、管轄法務局長等の許可を得て、戸籍の記載をすることができる。
 第二十四条第四項の規定は、裁判所その他の官庁、検察官又は吏員がその職務上届出を怠つた者があることを知つた場合にこれを準用する。
第百三十七条 正当な理由がなくて期間内にすべき届出又は申請をしない者は、五万円以下の過料に処する。
第百三十八条 市町村長が、第四十四条第一項又は第二項(これらの規定を第百十七条において準用する場合を含む。)の規定によつて、期間を定めて届出又は申請の催告をした場合に、正当な理由がなくてその期間内に届出又は申請をしない者は、十万円以下の過料に処する。

また、葬儀はいったい誰が行うべきなのでしょうか。墓地埋葬法において葬祭執行者がない場合は市町村長が葬祭を行わなければならないとされています。なお、生活保護ケースワーカーの主な所管事務は生活保護事務であって、墓地埋葬法は別の担当者で所管をしている自治体が多いことに一定の留意が必要だと思います。

墓地埋葬法

第九条 死体の埋葬又は火葬を行う者がないとき又は判明しないときは、死亡地の市町村長が、これを行わなければならない。

 

身寄りがない人が死亡した際に、民生委員等が葬祭を執行し、葬祭扶助を支給すべきという主張をよく見かけると思います。しかし、厚労省は民生委員が自発的に葬祭執行をする場合には葬祭扶助を支給してもかまいませんが、行政から依頼して民生委員が葬祭執行した場合には葬祭扶助を支給してはいけないと言っています。墓地埋葬法によって対応すべきであって葬祭扶助で対応すべきではないというのが公式見解です。

 

しかし、実際には民生委員に葬祭扶助を支給している自治体が多いです。今回の江戸川区の事件の検証委員に選ばれた池谷秀登さんが『生活保護ハンドブック』で触れていたと思うのですが、民生委員に自発的に葬祭をすることを行政は依頼しています。そのため民生委員の自発的な葬祭執行に対して葬祭扶助を支給することはかまわない、という主張です。この数年間で自粛を要請するという不思議なレトリックがありましたが、このような不思議なレトリックで生活保護を運用している福祉事務所は多いです。

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では、なぜ墓地埋葬法ではなく、葬祭扶助で対応する福祉事務所が多いのでしょうか。こちらは予算面のことがよく指摘されます。葬祭扶助であれば生活保護費として取られた大きな予算内でざっくりと処理ができますが、墓地埋葬法であれば年度内に何件かの見込みを立てて、その見込みを超える場合には補正予算を組む必要があります。また、葬祭扶助であれば自治体の負担は1/4のみだが、墓地埋葬法は全額負担になるということも指摘されます(これが個々の職員の行動原理に結びついているとはわたしはあまり感じませんが…)。さらに、墓地埋葬法は扶養義務者への求償などの具体的な運用に関しては不明瞭なことが多く、自治体で対応に苦慮していることもあるようです。以下のリンクをご参照ください。

https://www.cao.go.jp/bunken-suishin/teianbosyu/doc/tb_r1fu_12mhlw_85_87c.pdf

 

生活保護法は生者の健康で文化的な最低限度の生活を保障したものであるため、死後の法的対応についてほとんど示唆を与えない。そして、死亡届は届出義務者が法で規定されており、その実効性を担保するための催告などを行政が行えるようになっている。しかし、葬祭執行に関しては葬祭執行者が法定されているのは葬祭執行者がいない場合の市区町村のみである。その葬祭執行の責任のみが明確に規定されているが、そこに到るプロセス及びその後の求償など不明瞭なことが多い。

 

ケースワーカーは法的な指示が曖昧で、法的に支持されてもいない。市民課が対応するわけでもなく、墓地埋葬法の運用への接続がスムーズにされていないことも多い。思うに法的な整備が曖昧なまま、網目の粗いネットから漏れるたくさんのものをケースワーカーなり福祉事務所なりが埋めているのではないだろうか。ただでさえ生活保護利用者が死亡すると医療機関、扶養義務者、親族、家主、知人などとやり取りすることが多く、法的な支持がないためにストレスを抱えることが多いのではないだろうか。ここで問題が発生したときに、生活保護の「運用」のみならず、「制度」の在り様の問題を問い返したい。もちろん虚偽の報告をしたことや個人的な責任を免れない要素はあるかもしれませんが、ケースワーカー1年目で立場の弱い人の個人責任を追及するだけで本当に良いのでしょうか。また、確かに個人のみならず組織の責任も追及すべきではありますが、そのことで運用面の問題としてのみ捉えてしまうこともまた問題を矮小化してしまっています。

わたしの望み

わたしはどのような社会を想像/創造したいだろうか。それをわたしは考えたい。

 

わたしが望むのは、死後の対応の責任が個人ではなく、より広く開かれることです。ケースワーカーが懲戒処分という個人責任がすでに追及されています。葬祭執行までのプロセスは実質的に未整備のまま、葬祭執行が行われなければ個人責任を問われる社会をわたしは生きています。これは生活保護ケースワーカーにおいても技能実習生においても言えることです。

 

その中で墓地埋葬法が行政にとっても市民にとっても、誰にとっても使いやすいものになってほしいです。墓地埋葬法のアクセスビリティが高まって、葬祭執行を墓地埋葬法でやりやすくなってほしいです。そうすれば現行の生活保護法の対象外である技能実習生の方でも葬祭執行が無理であれば葬祭執行者なしとして、公的責任での葬祭が可能です。これは現行法でも十分可能な運用でもあると思いますが、もっとそれをやりやすくなってほしいです。生活保護の葬祭扶助を実質的に切り離したような制度の切り替えが可能になりえます。わたしは必ずしも岩田正美さんの『生活保護解体論』に賛同するわけではありませんが、葬祭扶助と出産扶助の実質的な切り離しは、そのいずれも刑事責任という形で個人責任を問われてしまうので急務だと考えています。

 

ちなみに今回は以上のような趣旨の記事ですので特に触れなかったのですが、江戸川区は事務処理で事件があり、その後に改善をしたためテレビ番組でも良い対応をしていると放送されました。ところが、最近になってまた別の事務処理懈怠の事件が発覚しています。今回は別の焦点の当て方をしましたが、福祉事務所自体も問題があるのだろうな、とは思っています。

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www.city.edogawa.tokyo.jp